東洋汽船横浜出張所 海岸通

東洋汽船横浜出張所
海岸通5丁目20番地
明治29年(1896)に浅野総一郎が設立、翌明治30年(1897)亜米利加丸、日本丸、香港丸で香港、マニラ航路を開設営業した。大正15年(1926)旅客船舶部門を日本郵船に合併、昭和35年(1960)貨物船部門を日本油槽株式会社に合併し消滅した。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「日本丸、亜米利加丸、天洋、地洋等の大美装船を以て米國桑港線、南米航路等に従事す。社長浅野總一郎君は本社と死活を共にするの熱心。社業益々隆盛は國家の大慶。明治卅五年の創立資本千萬圓。裁判所と新港の間に日の丸の扇子を開きたる旗の見ゆるは此社。」横浜商業遊覧案内

東洋汽船株式會社 橫濱出張所「本會社は日清戰後經營の一事業として起り、廿九年七月八日設立認可と共に、造船及び諸般の準備に着手せり、是より先き社長淺野總一郎君は當時太平洋上の航海權全く英米汽船に獨占されたるを慨し、同志相謀りて本社を創立し、親しく米國に航して百方折衝、遂に兩汽船會社との協定を遂け、卅一年末亞米利加丸、日本丸及び香港丸の三艘竣工し、同年十二月業務を開始し、英米兩汽船會社の經營せる桑港航路に加入することとなれり、而して其の航路は橫濱を起點とし、西は神戸長崎上海を經て香港に至り、東はホノルルを經て桑港に至る間を往復するに定めたり、當時米國は比島占領の擧あり、彼我の關係次第に頻繁を加へ、加ふるに布哇及び北米に渡航する我移民に多大の便益を與へたり、我政府は遂に是れを特別補助航路に指定し、爾來會社の事業益々揚り、營業成績も亦好况に進めり、卅四年二月更らに二艘の汽船を以て、香港馬尼刺の航路を開始せり、從來同航路には三大會社あり、彼我競爭を生ずるに至りしが、本社船舶は結構雄大に設備も整頓せしかば、貨物の搭載を求むるもの多大なるに至れり、卅七年日露開戰に及んで本社の汽船は悉く軍用に供せられ、米國航路の三艘は假裝巡洋艦となり幾多の海戰に参加し、香港馬尼刺航路の二艘は病院船となりて傷病兵士の渡送に從事せり、戰局終りを告ぐるや、會社は戰後經營の第一着手として南米航路を開始す、由來南米は土地廣漠富源無盡藏なり、好個の移民地にして叉貿易塲なれば、航路の開始は如何に對南米事業の發展に資せるかは固より言を俟たざる所なり本社は夙に時勢の進運に鑑み、更に大船巨舶を製造せんことを畵策し、本邦無比なる一萬四千噸大の汽船三艘を長崎三菱造船所に注文せしが、第一船天洋丸は已に桑港航路に浮び、第二船地洋丸も亦曩に其竣工を告ぐ、又別に貨物船五艘を作り、之を以て日米間の貨物專輸を圖らんとしっしあり、要するに本社は設立日尙淺きも居常積極主義を執り、能く歐米大汽船會社と拮抗して遜色なし、意吾航海權の伸長に努め、資本金六百五十萬圓は既に拂込を了し、時機を見て更らに增資せんとするの議あり、米國航路の寄港地たる桑港ホノルルを首め、橫濱神戸長崎上海香港馬尼刺南米航路の寄港地秘露カリヤヲ、智利、イキケ、ハルバライソ、其他世界の主要港に代理店を有し、且歐米諸國の汽船鐵道諸會社と聯絡を通じ、營業の規模頗る廣大に、秩序亦整然たり、本社々長は淺野總一郎氏、副社長は大川平三郎氏、常務取締役として白石元治郎 塚原周藏の二氏あり、橫濱神戸及び桑港香港に出張所を設く、橫濱出張所主任は井阪孝君にして敏腕家の譽れ高し、」横濱成功名誉鑑


神奈川縣案内

0 件のコメント:

コメントを投稿